康定情歌(女子十二乐坊专辑VCD版)
跑马溜溜的山上 一朵溜溜的云哟
端端溜溜的照在 康定溜溜的城哟
月亮弯弯 康定溜溜的城哟
李家溜溜的大姊 人才溜溜的好哟
張家溜溜的大哥 看上溜溜的她哟
月亮弯弯 看上溜溜的她喲
(梁剣峰さんギターが前へ)
(廖彬曲さん一言 大家一起唱吧!)
跑马溜溜的山上 一朵溜溜的云哟
端端溜溜的照在 康定溜溜的城哟
月亮弯弯 康定溜溜的城哟
カンティンチンクー
パオマー リゥリゥディ シャンシャン
イートゥオ リゥリゥディ ユンヨー
トゥアントゥアン リゥリゥディ チャオツァイ
カンティン リゥリゥディ チュンヨー
ユエリアン ワ~ン ワ~ン
カンティン リゥリゥディ チュンヨー
リーチア リゥリゥディ ターツー
レンツァイ リゥリゥディ ハオヨー
チャンチア リゥリゥディ タークー
カンシャン リゥリゥディ ターヨー
ユエリアン ワ~ン ワ~ン
カンシャン リゥリゥディ ターヨー
パオマー リゥリゥディ シャンシャン
イートゥオ リゥリゥディ ユンヨー
トゥアントゥアン リゥリゥディ チャオツァイ
カンティン リゥリゥディ チュンヨー
ユエリアン ワ~ン ワ~ン
カンティン リゥリゥディ チュンヨー
ユエリアン ワ~ン ワ~ン
カンティン リゥリゥディ チュンヨー
※中国語の発音を正確にカタカナ表記することはできませんので、正確な発音はpingying表記(アルファベットの発音表記)を参照してください。特にe音は正確に表記しがたい音です(エでもオでもアでもないような音です)。また、歌う時は四声(声の高低)がかなり無視されています。
康定情歌(仮訳)
素早く馬が駆けていく山(跑馬山)の上
素早く流れるひとつかみの雲!
ほんとにすっかり照らしてる
康定の城じゅうを!
月は 細く 細く
康定の城じゅうを!
李家の素早いお姉さん
人柄はまるまる素晴らしい!
張家の素早いお兄さん
彼女にすっかり惚れ込んだ!
月は 細く 細く
彼女にすっかり惚れ込んだ!
跑馬溜溜的山上 一朵溜溜的雲喲
端端溜溜的照在 康定溜溜的城喲
月亮彎彎 康定溜溜的城喲
李家溜溜的大姊 人才溜溜的好喲
張家溜溜的大哥 看上溜溜的她喲
月亮彎彎 看上溜溜的她喲
一來溜溜的看上 人才溜溜的好喲
二來溜溜的看上 會當溜溜的家喲
月亮彎彎 會當溜溜的家喲
世間溜溜的女子 任你溜溜的求喲
世間溜溜的男子 任你溜溜的愛喲
月亮彎彎 任你溜溜的愛喲
月亮彎彎 任你溜溜的愛喲
跑馬溜溜的山上 一朵溜溜的雲喲
端端溜溜的照在 康定溜溜的城喲
月亮彎彎 康定溜溜的城喲
康定溜溜的城喲 康定溜溜的城喲
跑馬溜溜的山上 跑馬溜溜的山上
跑马溜溜的山上 一朵溜溜的云哟
端端溜溜的照在 康定溜溜的城哟
月亮弯弯 康定溜溜的城哟
李家溜溜的大姐 人才溜溜的好哟
张家溜溜的大哥 看上溜溜的她哟
月亮弯弯 看上溜溜的她哟
一来溜溜的看上 人才溜溜的号哟
二来溜溜的看上 会当溜溜的家哟
月亮弯弯 会当溜溜的家哟
世间溜溜的女子 任我溜溜的爱哟
世间溜溜的男子 任你溜溜地求哟
月亮弯弯 任你溜溜地求哟
《甘孜日報》が全国的に多額の懸賞を用意して《康定情歌》の原作者の消息を求めた件は、本紙3月31日号でも伝えたが、多くの読者の関心を引くことになった。
4月1日昼ごろ、ちょうど甘孜から蓉開に来てこの報道を読むことができた郭昌平はわざわざ本紙までやってきた。郭昌平は《康定情歌》を長年専門的に研究しており、任輝春老人のいわゆる《康》系を王洛賓が改作したという話を否定したのである。
郭昌平はこう言う。「私は小さいときから跑馬山で育ち、《康定情歌》を20年以上研究してきました。ここに《康定情歌》は王洛賓が改作したのではないという資料が大量にあります。あの歌は、実は先にチベット・漢族の群衆の中で自由に歌って伝えられてきたもので、その当時は《康定情歌》ではなく、《跑馬溜溜的山》と呼ばれていました。跑馬山も当初は跑馬山と言わず、仙女山と言っていたのです」
現にある資料によれば、《跑馬溜溜的山》の歌詞は最初、群衆が歌い始めてできたものだった。40年代の初め、音楽家・呉文季が康定に来て民謡を収集し、《跑馬溜溜的山》の原初の詞曲を記録・整理している
それから、重慶の青木関国立音専の教師・江定仙がこの民間歌謡を心を込めて編曲整理して《西康情歌》となった。当時の有名な歌唱家・喩宜萱が南京で歌ったことから、それ以来この歌は全国に広まったのである。
郭昌平によれば、《康定情歌》は康巴のチベット・漢族文化の精華を濃縮したものであり、中国のラブソングの典型的な代表である。前世紀90年代の初め、アメリカは宇宙に向って人工衛星を発射し、全世界から選び抜いた10の民間歌謡を宇宙で放送したが、その中にも《康定情歌》があった。
郭は《康定情歌》の事情の経緯をはっきりさせるために、一昨年にわざわざ北京に行って喩宜萱を探していた。喩宜萱はもう92歳の老人となっていたが、彼女は《康定情歌》が確実に王洛賓の改変したものではないことを実証することができたのである。
郭によれば、王洛賓が《康定情歌》を改変したのではないというのは、さらにいくつかの根拠がある。一つには、王洛賓は生涯、康定に行ったことがなかったこと。二つには、康定は30年代には非常に閉塞していて、十数年ほどそれは続いていたので、《康定情歌》は王洛賓が当時済んでいた陝甘あたりまで伝わることは不可能だったこと。三つには、康定で関係するファイル資料を探したところ、王が《康定情歌》を改変したという証拠は発見できなかったこと。四つは、その前の二年間、王洛賓の息子が手紙を送ってきて、《康定情歌》の初期の原稿が自分の父親と関係あるのだと言ってきたことである。
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