楽坊帝国初代国務尚書 張爽
人を知る者は知なり、自らを知る者は明なり、明知の人 張爽
統一戦争にあって重要な交渉は全て彼女が担当し、その全てを成功させてきた、語学に堪能で国際儀礼に明るく、帝国建国後の海外発展では最大の功労者である。特に新たな海上交易路の開拓、南方諸国との通商条約締結は張爽でなければ不可能であったろう。
対外交渉、政治折衝において彼女は抜群の平衡感覚を示し、楽坊の威をかざすことなく、お互いに利益が得られるよう対等な条件で条約を結んできた。
「大楽坊が頭を下げ腰を低くして臨むなど、屈辱である」と声高に叫ぶ人たちを張爽は睥睨し、穏やかにされど力のこもった揺るぎない口調で答える。
「相手を侮らず、鼎の軽重を問われず、共に栄える方策を示すことが楽坊の道です、この太祖聖蘭帝が残した祖法に挑むというのなら、受けて立ちましょう」
外交という戦場をたった一人で戦い抜いてきた、己の力だけを頼りに幾多の修羅場をくぐり抜けてきた、生命の危険に晒されたことも何度あっただろう、張爽の瞳には全てを乗り越えてきた自信と堅固な意志が宿っている。危険から逃げ出し、困難から遠ざかっていたもの達に、張爽の目をまともに見ることなど出来はしない。
張爽はただ優しいだけの人ではない、悪には断固として立ち向かう鋼の強さがある、彼女の役職では私財を貯めることは容易である、実際便宜を図ってもらおうと何人もの商人が彼女に賄賂を渡そうとした、そして彼女の眼光に恐れをなし命大事と逃げ帰ったのである、張爽 奔流のなかの盤石は盤石である。
「破顔一笑、心開かぬ人無し」と幾多の書物に書かれているとおり、張爽の笑顔には人を素直にさせる、否させずにはおかない不思議な力があった、初めて出会った人も懐かしいような、愛されているような、そんな嬉しくて幸せな気持ちになる、泣いてる人も、怒ってる人も張爽の笑顔の前ではみんな笑顔に戻る。もし、この世界に魔法があるとしたら、それは張爽の笑顔かも知れない。
「日月の彼方へ ~紅蓮の微笑/雛菊の笑顔/鈴蘭の笑声~」と題された小説が人気を博するのはずっと後のこと、楽坊達の活躍は時代を超えて語り継がれている。“美しき恐怖”の失われた記憶と砕かれた心の欠片を探して、イン・イェン、張爽、馬菁菁の三人が世界中を旅する物語、三人の個性は小説が書かれた時代にはすでに一般化していたが、物語のなかの彼女達は更に強力にそして魅力的になっている。
武芸百般に秀で特に槍は神業、感情を持たない不思議な美女イン・イェン(謎多し)
言語と殖財の天才、責任感が強く人助けが大好きな笑顔の張爽(何かが足りない)
無限の知識と全方位に向けられた好奇心、全ての謎に挑む馬菁菁(何かが過ぎる)
序章(彼女達の出会い)から最終章まで火の国や氷の国、水中王国や地底王国、はては天国、地獄まで、彼女達の活躍はとどまることを知らない、そして物語の核心では張爽の笑顔と信じる力、イン・イェンの過去を受け入れる勇気、馬菁菁の未来を切り開く意志の強さが大きな役割を果たすのである、後は読んでのお楽しみ。
「たとえ涙を流しても泣き顔ではない」張爽の素顔を問われて馬菁菁の答え。張爽の笑顔が照らさない彼女の過去を知る者は少ない。
正史「楽坊志」の編纂に当たって楽坊資料の最高峰と賞賛され、資料的価値と文学的価値の双方で圧倒的に支持される張爽からの贈り物、それは時間の法則から切り離されたかのように今なお読み継がれ、愛され続けている張爽が残した文字の記憶。
名文家として知られる彼女の残した記録はすこぶる詩的である、しかもその量たるや驚愕と言うしかない、統一戦における楽坊各人の活躍から航海の記録、南方諸国や西域へ赴いたさい知った様々な風土や文化、そして何よりも彼女が出会った全ての人、泣いてる人も笑ってる人もみんな彼女の大切な宝物であり、かけがえのない命の絆。人の内なる神秘から星々の深奥まで、形式に囚われず心の求めに応じて書き記したありのままの世界と張爽が見た世界、
「事実は一つ、でも真実はそれを知る全ての人がもっています」
張爽は、美しい花と美しいと感じる心を違えることはなく、人が忘れてしまった花と、人が未だ知らずにいる花を見落とすこともない。
「風が薫り、風が歌い、風が輝く」と褒め称えられる張爽の文章、そこにあるひと筆ごとに込められた思い、行間から溢れ出す感情、秘された願い、彼女自身のことは何一つ書かれていないけれど、文面を鏡として映し出された張爽の真摯な姿と、楽坊一笑って楽坊一泣いた張爽の、心の軌跡。そして最後に彼女が必ず書いた万感の思い、「ありがとう、大好き」
楽坊加入以前も合わせれば、張爽にも六年ぐらいは戦場の経験がある、もちろん彼女が望んだことではなくて、小勢力ではありがちな「他に人がいなかったから」とゆう彼女にとってはまことに不幸な理由で。
もっとも彼女の役回りが「馬菁菁の相棒」である限り、楽坊でなければ大勢力になっても張爽の姿は生涯戦場にあったのかも知れない。最初は馬菁菁のために楽坊軍入りを決めた張爽であったが、いつしか楽坊は張爽にとってこそ、無くてはならない存在になっていた、
楽坊は張爽の舞台では張爽が主役であることを気づかせてくれた、楽坊での歳月がゆっくりではあってもその分確実に、張爽を強く大きくしていった。
「孫媛の夢見の作法」をめぐって起きた「張馬の七日間戦争」では、決して遊びではなかった百戦百勝の馬菁菁さえ負かしたのである、両の拳を固め「負けるもんか」の台詞が出た張爽は強い。
「一つを知って十に応用する、張爽の優れたるは正にそこにある」
七日間戦争で負けた後、馬菁菁がめずらしく人前で張爽を褒めた言葉である。太祖スン・ティンも機に臨み変に応ずる才は楊松梅に匹敵すると認めている、そして最後まで諦めないねばり強さと、挫折を怖れない意志の強さは楽坊一であると。もっとも馬菁菁に言わせるとそれも「楽坊一往生際が悪い」と言うことになるらしい。
聖桜五年二月
南方諸国との交流が軌道に乗ったことを確認した張爽は、その目を西域に向け新たな一歩を踏み出した、本来なら、廖彬曲の後を継いで帝国宰相になるはずだった。建国から十三年、統一から十年、楽坊帝国はようやく立ち上がろうとしている、二世聖桜帝はその母親譲りの資質で名君になることは疑いがない、けれど帝は未だ少女の面影を残す年頃であり、楽坊の名前で世界を安定させるには、まだまだ多くの時間と、たくさんの人たちの努力を必要としていた、しかも年々その勢力を拡大する楽坊に、周辺諸国は警戒の色を強くする一方である、疑心が暗鬼を生み、暗鬼は恐怖へと変貌し、いつかは狂気すら身に纏う、負の連鎖は時を経るごとに笑顔を凍らせてゆくだろう、そして笑顔が凍りついた時......
楽坊はその結成から今に至るまで常に進化を遂げてきた、しかも尋常ではない速さで頂点に立った楽坊、民衆は速さを支持して大きな期待を寄せたのである、しかし、その速さが人々を振りきるほどに加速してしまってはいけない、楽坊のなかで、楽坊の季節を移す時が、訪れようとしていた。
「爽にはもっと大きな使命があると思うの、あなたの実力に見合った、楽坊の未来を託すほどの大きな大きな使命が、急がなくても良いけどきっと見つけてね、何よりも、あなた自身のために」
泣きそうになった、なんだか楊松梅が遠くへ行ってしまいそうで、不安で心細くて。そんな張爽を気にする風でもなく楊松梅は話を続ける
「そうそう、イェンがね、すごく興奮して『わかった、わかった』て叫びながら私のところへ飛んできたの。すごいでしょう、あのイン・イェンが血相を変えてたのよ、私の大切な宝物が一つ増えたわ」
思い出したら可笑しくなって、ケラケラと笑い出した。
(今日の松梅は何か変、確かに血相を変えたイェンも想像付かないけど、こんなに楽しく笑う松梅を見るのも初めてだ、)
そう思ったらやっぱり涙がこみ上げてきた。
「落ち着かせるのに苦労したのよ、さすがに力では相手にならないもの」
吹っ飛ばされたらしい、そんな風におどけて見せながら、
「それでね、随分苦労してやっと聞けたの、イェンもしゃべりたくて来たのにね~」
楊松梅もしゃべりたいのか笑いたのか、とりあえずイェンの真似をしてる。
『謎が解けました、これはさすがの大軍師殿も分からなかったことです』
「私にも分からなかったこと?」
『そうです、なぜ張爽は笑顔の中心にいるのか、という謎が』
「昔ね、イェンに質問されたのよ『なぜ張爽は笑顔の真ん中にいるのですか』てね、
その時私は知らないと答えたの、でね、張爽をずっと見ていたら、いつかきっと
答えが分かる時が来るわって、そう言ったの」
「だからそれ以来、イェンはずっと爽をみていたんだろうな~て」
ちょっとだけ張爽が羨ましくて、ちょっとだけ聞いてみる
「なんだと思う、張爽が笑顔の真ん中にいるわけって」
張爽は首を横に振る、何度も何度も、そして涙がこぼれだした、
「イェンが教えてくれたの」
『張爽は、いつも笑っている』
楊松梅が優しく張爽を抱きしめる。
「ホントよ」
「あなたはいつも笑っているの、だから笑顔の真ん中にいるんですって」
「その発見に至までを熱心に話してくれたわ、本当にうれしかったみたい」
泣きやまない張爽を抱きしめたまま、楊松梅はしばらく話を続けていた。
いつのまにか静まりかえった部屋の中、秋の夕日が差し込んできて二人を包む沈黙を破ったのも楊松梅だった、張爽の涙を拭ってあげながら
「爽はすごいね、イェンの笑顔を取り戻してあげたんだもの、」
「私は何もしていないよ、本当に何も...」
やっと張爽がしゃべった、でも楊松梅はただ微笑んだだけで、それには答えなかった、張爽はまた黙ってしまったけれど、まっすぐに、ただ真っ直ぐに楊松梅を見つめていた流れるに任せた涙の跡だけが痛かった、何かに満足したように楊松梅は大きく頷き、厳かな空気を身に纏い張爽に話しかける
「おぼえておいてね張爽、あなたは素晴らしい女性、大きな力を内に秘めた強い人、辛くて苦しい時こそ、自分を信じてあげてね、そして、あなたの笑顔を待ち望んでる世界中の人たちに会いに行ってね、その中で張爽の道はきっと見つかるから」
目が覚めたら、泣いていた。
楊松梅に会いたくて夜の衣を返していた、楊松梅がいてくれたらの思いが見せた夢、いいえ遠い日の記憶
あの日より、はるかに豪華になった部屋、白くて柔らかな寝具、けれど思い出される楊松梅の優しさと温もりには、遠く及ばない。
その朝、張爽は馬菁菁と廖彬曲に会い西域に向かう決意を語る、そこで張爽は今回の西域行に軍隊は護衛のみにとどめること、それと廖彬曲が創設した多民族楽団を随行させることを打ち明ける。
張爽にもはっきりとした未来図が、描けていたわけではなかったけれど、今の楽坊を理解してもらうには、あの楽団をおいて他にはないように思われた、それは見事な演奏を披露することが第一の目的にあるのではなく、楽坊はその始まりから他の文化を受け入れ、新しい風を興そうとしていることを何よりもわかってもらいたい、と願ったから。
廖彬曲は驚きながらも張爽が羨ましかった、できるなら自分がその役目を果たしたかった、廖彬曲も彼女の人生のなかで同じ思いにたどり着いていた。言葉にできなかった廖彬曲の思いはけれど、張爽に伝わっていた、楽団設立に至った廖彬曲の強い思いを知らぬ張爽ではない、それどころか彼女がそれほどの思いで創った楽団なればこそ、今回の西域行で大きな力になってくれると信じられるのである。
馬菁菁は更に何も言わずにいる、馬菁菁には確信にも似た予感があった、張爽は今回の西域行を成功させるだけではなく、彼女が長い間探し求めていた張爽の道を、きっと見つけるとであろうと、そして馬菁菁にはその方がずっと大切なことだった。
沙漠の夜を幾度数えたであろう、一人張爽は北を向いて立っている、上弦の月も地平線をくぐり、今や抱きかかえられそうな近さに満天の星、風が落ち砂は眠りにつく、時間さえも立ち止まった静寂、ただ星のみが定めに従う。どれほどの時間、彼女はそれを見つめていたのか、極北の輝き標の星、それは、瞳を閉じた彼女の心に刻まれた世界。
標の星は北を動かず、それ故に夜の世界を行き交う人々に安心と希望を与える、楽坊も標の星のようでありたい、そう願わずにはおれない、人々の心が乱れ、泣きながら彷徨う時、心を定める光でありたい、明日を信じる勇気でありたい。
「私に何ができますか」
願うほどに祈るほどに増す使命感、だからこそ問うのだ、他の誰でもない張爽自身に。張爽は楽団の音楽を心音と紹介している、心で奏で心で聞く音だから心音、名付けたのは廖彬曲、
「誰もが持っている心の音楽を共鳴させることができたら」
心音に込めた廖彬曲の思いはここ西域で見事に花開く。訪れた土地で楽坊は快く受け入れられた、そして大勢の人たちが心音を聞いてくれた。歌を歌う人、踊りを披露する人、みんな笑顔で身体全体で歓びを表現してくれる、張爽は感動の連続だった、特に子供たちがはしゃいで跳びはねる姿を見るとすぐにでも駆け寄って抱きしめたくなる、
「この子たちの笑顔がずっと続きますように」
たくさんの笑顔と笑い声が体中を満たしていく、再び標の星を見つめる張爽。何かがつかめそうな張爽に決定的な思い出がよみがえる、それは孫媛が教えてくれた、
「標の星も長い間に様々替わっていくの、そしていつかは織女星が標の星になるのよ」
「標の星が替わる?それではこの世界には、不変なものは存在しないのですか?」
「確かに星は替わるけれど、でも標の星が標の星であることに、変わりはありません」
ありがとう孫媛、今あなたの教えが理解できました、楽坊が標の星であり続けるために必要なこと、それは楽坊を継ぐ者を育てていくこと、楽団に心音があるように、楽坊にも言葉では言い表せない大切なものがある、彼女達が全てを賭して守り抜いてきたもの、“楽坊の心”、“楽坊の誇り”ジャン・クンの天才により遠からず楽坊の真の都は完成するだろう、でも楽坊の心と誇りを受け継ぐものがいなければ、結局は砂上の楼閣ではないのか。
楽坊の心と楽坊の誇りを未来へ、そうだ、
「未来の子供たちには、未来の楽坊に出会って欲しい」
ついに辿り着いた、この思いこそ彼女が果たすべき使命、張爽の道である。この感動を誰よりも早く馬菁菁に伝えたかった、遠く離れていても私のことを思っていてくれる彼女に。感謝と決意を記した文を使者に託し再び沙漠に立つ、自分が誕生させる新しい楽坊、私達を継ぐ者たちに思いを馳せながら、
「でも、簡単には譲らないわよ、負けるもんか」
おもわず両の拳を固める張爽。張爽が楽坊に名を刻んでから二十七年の歳月が流れていた。
聖桜十九年の夏五月、聖都「自由」が完成する。
大地が雄叫びを上げたかのような歓声、大空を砕かんばかりに打ち鳴らされる鉦鼓、楽坊を称える人々の笑顔は、楽坊が正しかったことを何よりも証明している。
終わり無き喝采のなかで、彼女達の胸に去来する思いは何であるのか、人々に手を振って応えながら、張爽は隣にいる馬菁菁に話しかける。
「ここには私達の過去と現在と未来があるわ」
込み上げてくる感動を押さえきれない馬菁菁は、張爽に抱きつき大粒の涙をこぼす。張爽は馬菁菁と巡り会えたことに感謝した、楽坊に出会えた奇跡と共に。ただ、この時この場所に全員が集うことは叶わなかった。
完成までに要した年月の長さに詫び入り、苦悩するジャン・クンに張爽は言う、
「顔を上げて、さあ一緒にこの自由を歩きましょう、私にはみんなの姿が見えるわ」
張爽の笑顔の魔法は今なお健在である、ジャン・クンは己が罪の赦されたるを知った、碧空にそびえる光蘭楼、聖都「自由」で最も重要な建築物でその名は太祖に由来する、その光蘭楼で盛儀の初めに、聖桜帝が天に奉じた表文を書き上げたのも張爽である、今この場所にいるべき太祖スン・ティンを思い、ともに戦った仲間を思い、一句一章に心血を注ぎ、持てる力の全てを出し切って完成させたのである。楽坊はなぜ誕生したのか、楽坊は何を目指してきたのか、楽坊は何処へ行くのか、時には立ち止まり、また全力で駆け抜けた彼女達の長い道のりを、その心情を、飾り立てることも偽ることもなく、ただ美しいと思う心を筆として書き綴ったのである。
楽坊の旗の下に集まった十三人それぞれの昔を想起し、皆の顔が、皆の声が甦るに及び、熱涙数行を禁じ得ないものがあったのであろう、筆意に乱れが生じ、紙墨のうえにも涙の零れ落ちた跡そのにじんだ文字、数多である。聖桜帝は文字が震え涙の跡が残る表文を書き直させることはなく、「これこそ、楽坊の至宝」と仰せられ、張爽の手を取り共に涙されたのです。
万感胸に迫る、太祖スン・ティンと出会って四十年余、今張爽が初めて自分を語る、
「私も楽坊のために、少しは良い仕事ができたようです」
張爽の胸に消えることなく、いつまでもあり続ける太祖スン・ティンの言葉。
「張爽、あなたに会えてよかった、あなたが楽坊にいてくれて、本当に良かった」
楽坊の花が咲き誇った季節 世界は 張爽の笑顔でいっぱいでした。
-2005/02/28~03/20
-written by 朝霧
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