「楽坊の華」と謳われた楽坊軍随一の華麗なる将軍
蘭八騎第二将軍にして王鵬の称号を持つもの、炎の詹麗君
抜群の身体能力と多様な任務に即時対応する柔軟さを併せ持ち、馬菁菁の戦略においてレイ・インと共に主戦をつとめる。
レイ・インとあ・うんの呼吸で繰り出される強烈無比の連続攻撃、その凄まじき破壊力は、精強で知られる烏丸の部隊でさえ粉微塵に打ち砕く。
個の武において詹麗君は間違いなく天下最強であり、彼女の渾身の一撃を受け止められるものはいない(但し一度だけ受け止められたことがある)
東漢の武の名門に生まれ、その奇跡とも言うべき天賦の才により男兄弟と共に武人として厳しく育てられた、武芸だけでなく兵法書や論語、史記も学び、学者顔負けの博識を誇り、楽毅の再来と呼ばれ将来を嘱望されていた、彼女自身目指すは大将軍大司馬であった。
そんな彼女が楽坊軍に入ったのはやはり運命なのか、寿春に滞在していたおり周健楠の噂を聞き、旅程を変更して建業へ向かうことにする、何かしらの考えがあったわけでも、確信があったわけでもない、ただ元々目的のある旅ではなかったし、いや目的を探すことが目的の旅だったし、興味が向けばそのまま足を向ける、その程度のもだった。
しかし建業の街は今まで彼女が訪れたどの街とも全く異なった趣で彼女を迎える。長江を渡った頃から、雰囲気というか風の色が変わりつつあることは肌で感じていたが、
「何なの、ここは...」
城門をくぐり初めて見た建業は、詹麗君を驚かせ戸惑わせるに充分すぎる街だった、未だ発展途上の街は至る所で大規模な工事が続き、威勢の良い声が飛び交っている。往来の激しい大路の様はまるで壺口が逆巻いたようであり、市場では様々な食料品が棚からこぼれ落ちるほどに溢れ、日々の雑貨から衣料品は無雑作に山積みされている、更に真剣に見入った武器防具の質の高さ種類の豊富さその量、想像の域を超えていた。思いがけない建業の繁栄振りに驚きながらも、落ち着いて納得のいく答えを探し出す、
「江東にその人有りといわれる周健楠が、理想郷を目指して創っている街だもの」
底知れぬ財力と多岐に渡る人脈が、高邁な理想とかみ合えば有り得ない話ではない。しかし詹麗君を戸惑わせた建業の空気は全くもって理解できなかった、
「何だろうこの明るさは、こんな雰囲気の街は見たことも聞いたこともない....」
“倉稟満ちて則ち礼節を知り、衣食足りて則ち栄辱を知る” 古人の言葉だけではとても説明しきれない何かが、そうこの街には不思議な力と不可解な魅力が潜んでいる、活況と混乱紙一重の街を自在に泳ぎ回る子供達、どの子を見ても眩いばかりの笑顔に明るく力強い笑い声、子供だけじゃない大人達もそうだ、槌音を響かせ石を積み上げている者までが嬉しそうに作業をしている、みんな笑顔で唄まで聞こえてくる、
「何がそんなに楽しいの、どうしてそんなに幸せなの、」
そんなことを考えて答えを探している自分が、何だか情けなくて惨めに思えてきた、いたたまれない、今すぐにでもここから立ち去りたい、うつむき逃げ出すように街の外へ向かって走り出した詹麗君、その後ろ姿に誰かが声をかけた、
「この街には太陽があるのよ」
反射的に振り返ってその人を捜す詹麗君、誰もいない、それらしい人はおろか、これだけたくさんの人がいるのに誰も詹麗君を見ていない、あふれかえるほどの人混みの中で彼女は一人きりだった
「確かに聞こえたのに、はっきりと聞こえたのに」
立ちすくむ詹麗君、彼女は幼い頃から理詰めでものを考えるよう習慣づけられてきた、不安といらだちに耐えかねた彼女が、ついに意を決して道行く人に話しかける、
「すみません、あの、あのこの街に、この街には太陽があるのですか」
尋ねられた方が驚くよりむしろ心配したほど、ぎこちなく不安げに話しかける詹麗君、彼女にとって教えを請うのは師だけであり、探し求める答えは書物にあるものだった、それが叶わぬ時には時間がかかっても、自分一人の力で考えて答えを見つけ出してきた。そのように教えられ育てられてきた、それは期待の大きさを証明する厳しさとも言える、詹麗君は路傍に咲く花の名前も、その道の先にあるものも、他人に尋ねたことはない。
そんな詹麗君の必死さは何とか相手に伝わったらしい、いきなり尋ねられて戸惑った女性も、軽く笑みを浮かべて応えてくれた、
「太陽?それは空の上にある...のではなくて、う~ん、あぁそうか」
「解ったのですか」
「痛い!痛い!痛い!」
詹麗君は思わず女性の肩を掴んでしまった、慌てて手を離して謝る、
「申し訳ない、つい」
「あなたすごい力ね、背も高いし」
そう言ったところで女性は、詹麗君の腰に剣が帯びられていることに気がついた、
「あなた、ここに仕官しにきたの?」
「えっ、いや別にそんなつもりは」
思わず剣を後ろに回した、隠すつもりはなくてただ咄嗟に、
「何してんのそれ、まぁでも物見遊山でもないよねー、そっか、武者修行の旅ね」
困り果てる詹麗君とは対照的に女性は段々と楽しくなってきたみたいで、
「そうでもない?じゃあ何だろう、そうねーこんなお間抜けな間者はいないだろうし」
「あのそんなことより、そろそろ」
じれったくて、でも催促するのも何だし、詹麗君も気を遣っている
「あっそうそう太陽よね太陽、ごめんね、あたしったら」
「こっちよ」
そう言って詹麗君の腕を掴んで女性は路地へ入っていく、ますます困惑する詹麗君、でも(「お間抜けな間者」って私のこと?)“間抜け”の部分が気になって仕方がない。
「あなたの言う太陽って、きっと姫様のことだわ」
「姫様?」
もう何が何だか訳がわからない、
「そうここ建業の姫様、普通なら太守でしょうけど、ここは周様が建てた城だもの」
喋りながらも女性は掴んだ腕を放さずどんどんと進んでいく、なかなかに速い。
「建業の主は周健楠ではないのですか」詹麗君は本気で驚いた、
「いいえ、スン・ティン様よ、もちろん周様がお決めになったことだけれど」
「スン・ティン様?」
どんなに記憶を遡ってみても、師の言葉や書物を思い出してみても、思い当たらない、思い出せない、それは仕方がないこと、今初めてその名前を聞いたのだから。
「スン・ティン」
「そうスン・ティン様、あなたの言う太陽よ」
詹麗君は考えることを諦めた、考えても答えが出ないこともある、きっとこの女性について行けばそのスン・ティン様に会えるのだろう、そしてスン・ティン様に会えば答えが見つかるに違いない、何の確証はなくても詹麗君はそう信じることにした、彼女は気づいていないがこのように気持ちを切り替えることは今までにはなかったことだ、ただ詹麗君は随分と気持ちが楽になりスン・ティンに出会えることが楽しみで仕方がない、そんな気分だった。
「姫様なら宮城におられるのでしょう、まさかそこに?」
好奇心というか思いつくままを聞いてみた、
「それこそまさかよ、あたし達なんかが宮城には入れるわけ無いでしょう」
「では何処へ向かっているのですか」
「黙ってついてきなさいよ、今日当たり城から逃げ出してくる頃だからさ」
ついてきなさいって、あなたが掴んで放さないのだからついて行くしかないのに、おもしろい人だな、前をいく彼女にやっと気持ちが向き始めた。
「逃げ出すって、何から?」
「周様のお説教よ、何かやらかすたびにお小言を食らうんですって、最初の内は我慢して聞いているそうだけど、度重なるとやっぱりだめらしいよ」
「それで逃げ出してくるんですか」
詹麗君の細い目が丸くなった、
「そう、泣きながらね」
そう言うと彼女は大笑いした、どこまで本当の話なのか解らないけど、彼女の大きな笑い声は詹麗君にも気分の良いものだった、つられて笑い出した、もちろんこれも...狭い路地を抜け大きな通りを横切りたくさんの角を曲がって、そして
「あっ、いるいる」
走り出してから初めて彼女は後ろを振り返った、その笑顔には人ではない何かがあった、
「やったね、あなたの探し求めていた太陽だよ」
路地の暗がりから日の当たる明るい世界へ抜け出た瞬間、その光景を、その姿を、詹麗君は一生忘れない、大勢の人に囲まれた馬上で、のけぞるほどに反り返り大口を開けて笑うその女性、初めて目にするスン・ティンその人であった。
詹麗君はしばらくスン・ティンを見ていた、何も考えずただ眺めていた、スン・ティンは少しもじっとしていない、右に左に後ろにと全ての人の求めに応えるように話しかけては大きな口を開けて笑い出す、人だかりは増えていくばかり。
「かわいいな、このひとは」
これが詹麗君のスン・ティンに対する第一印象、そして
「私が探し求めていた太陽」
そう言われれば何だかそんな気がしてきた、
「あの日以来私は、この太陽を、スン・ティンを探し求めていたのかも知れない」
詹麗君は自分自身でも知らなかった本当の答えを今、見つけた気がした。
「あなた背が高いわね、瑾と同じくらいありそう」
「えっ」
しばらく考え込むようにうつむき、柄に刻まれた文字を見つめていた、驚いて顔を上げると、スン・ティンがすぐそこにまで来ている、
「私の幼なじみにも背の高いのが一人いるのよ、でもそうねぇ瑾の方が少し高いかな」
馬から下りると、見上げるようにつま先立ちして、笑いながら話しかけてくる。戸惑ったのは話しかけられたことより、スン・ティンの態度の方、詹麗君は今まで初対面の人から、いきなり話しかけられた事など無かったし、更にこんなに親しみのある笑顔で、こんなに近くで接してくれる人も初めてだった。うれしい、ただ話しかけられただけで嬉しかった、いやその笑顔が見れたから、
「初めてお目にかかります、私は広平郡」
作法に従い詹麗君が名乗ろうとしたところで、
「姫様ー、大変、たいへん」
人混みの中からスン・ティンを呼ぶ大きな声がして、それを合図に起こったざわめきが、またたくまに広がっていく、
「えーまさかもう来たの?」
スン・ティンはあきれたように顔を向けるが、これほど大勢に囲まれていては見えない。詹麗君もさすがにみんなの視線が向く方に目をやると、おそらく城中の人たちであろう数名がこちらに向かって馬を走らせてくるのが見て取れた、
「ねぇだれが来てる?」
スン・ティンの問いかけに応えてどこかで声がする、
「仲宝様のようです」
「宝かー、考えたなこれは手強い」
そう言うと詹麗君の方に向き直って
「ねぇちょっと、あなたこれ大丈夫?」
パンパンと馬の鞍を叩く
「え、ええ、大丈夫ですけど」
詹麗君は意味をはかりかね、スン・ティンは楽しそうに笑う
「良かった、じゃあ乗って」
「えっ」
「急いでっ、」
本当に何が何だか解らないけど、拒めない何かがスン・ティンにはあるらしく詹麗君が馬に跨るとスン・ティンがその後ろに飛び乗って
「案内するからとにかく走らせて、早く早く」
二人は詹麗君が手綱を取りスン・ティンが後ろに乗って駆け出した
「みんな、どいてどいてー」
詹麗君は目を瞠った、スン・ティンの一声で黒山の人だかりが左右に割れていく、まるで大地が裂けながら新しい道を生み出していく、その迫力の光景は「凄い!」の一言に尽きる、詹麗君は目の前に開けられれた道が、あたかも自分のためにあるように感じられた、
「この道の先には、何があるのだろう」
『天賦の才』、多くのひとが憧れを抱く響き、しかしそれ故に詹麗君は幼い頃より父の期待と一族の願いを小さな肩に背負わされ、決められた道を一人で歩いてきた、歩かされてきたと言うべきだが、期待に応え願いを叶えることは何時しか、詹麗君にとって自分自身の道に変わっていた、その道の先にあるものを手にするために、その為に喪った、かけがえのない大切なもの、その多さと大きさに耐えるために何よりも自分を見失わないために、信じられるたった一つの拠りどころとして。例えそれが誰かの道であっても、自分で決めた道を自分の力で歩いているのだ、
それを詹麗君は自らの誇りと認めていた、その道が、詹麗君とは全く関係のないところで、全く関係のない人たちによって理不尽に断ち切られたあの日まで.....
「赤い幟を立てた店があるでしょう、その三つ先に角があるから右に行って」
「このまま真っ直ぐ縦筋を二つ抜けて、それから左へ」
「前に見える小門を抜けて左へ行くと寺があるから、そのまま境内を突き抜けて」
矢継ぎ早にスン・ティンが指示を出す、
「瑾ならこの辺で振り切れるんだけどね、宝は私より街で遊んでるし」
あれからずっと走り続けている、もちろん詹麗君に行き先など解らない。
「あなた走らせるの上手ね、我ながらけっこう無茶を言ってると思うけど」
驚くのにも疲れたし、もううんざり、でも聞かずにはおれない性分だから
「あのそれは、適当に指示を出していると言うことですか」
「そうよ、だって今日の相手は宝だもの、街の中だとあのこの方が上手よ」
「迂闊に行き先を決めると先回りされるわ、あのこの直感は恐いんだから」
面白くなってきた、詹麗君は何かを期待している自分に気付く久しぶりの、この気分、これからどうなるのか、どこへ行くのか、結末が待ち遠しくて仕方がない。
「ではこのまま、あてもなく走り続ける気ですか」
初めて攻めに転じる、それぐらい余裕ができた、
「う~ん、どうしよう、」
スン・ティンの顔は見えないけど、きっと笑っているんだろう、詹麗君はふと思う。このまま走り続けても良い、そんな結末も有りかな。流れる景色とスン・ティンの声が調和して、何とも言えない幸せな気分にしてくれる。
「街を出るわ、馬も乗り手もこっちの方が上なんだから、そうしよう」
「そうしようって、本気ですか」
街を出るとは大胆なことを言う、このひとはこの街の姫様だというのに、でもこういうところも、人々から愛されるスン・ティンの魅力なのかも知れない、
「取り敢えず宝から逃げ切らないとね、私も久しぶりに出てきたんだから」
何となく周健楠の説教から逃げて来るという話が、本当のことのように思えてきた、
「そんなに周健楠殿のお説教は嫌いですか」
「うん、嫌い、だって細かいんだよ、良くもそんなに喋ることがあるなってぐらいに」
やっぱり本当だったんだ、詹麗君は思わず笑ってしまった、
「何か可笑しい?あなたも一度聞けば解るわよ、作法だの心構えだの、延々と続くよ」
作法と聞いて大切なことを思い出した、すっかり忘れてたけど
「申し遅れました、私は広平郡曲梁の生まれで詹麗君と申します」
詹麗君にしてみれば、やっぱり初対面の人とは挨拶からはじめないと落ち着かない。もっとも馬に乗ったままなのだから、形式にこだわっただけかも知れない、
「そうなんだ、詹麗君、麗君、きれいな名前ね」
「あっあれが建業の西門、出たら全力で走ってね、馬は大丈夫だから気にしないで」
解っているけど、承知しているけど、スン・ティンには形式にこだわって欲しくない、当たり前なら彼女は太守であり、自分は平民である、一緒に馬に乗っていることが有り得ないことなのだ、もちろん建業は私領なのだから正式な官職ではないけれど、現実がそうであれば礼に従うのは当然、本来なら詹麗君はそんなこと思いもしない。でもスン・ティンは違う、彼女は今の価値観には収まりきらない人ではないのか、ここに来るまで名前も知らなかった、その人を知ってからもまだほんのわずかである、それでも詹麗君は自分の感じたことを正しいと確信していた、だから
「もしかして私のこと知らなかった?だったらごめん、私スン・ティン」
「ティンでもテンでも好きなように呼んでね、なぜか姫様と呼ばれることが多いけど」
良かった、スン・ティンの言葉に感激した、今日は何度驚いて何度感動しただろう。すごい一日いや滅茶苦茶な一日、しかもその中心にいるのは、詹麗君、私だ。
「よーしさすがに振り切っただろう、麗君本当に上手いね」
仲宝は建業を出たところでスン・ティンを見失ってしまった、
「あらら、もうだめだわ、自信あったんだけどな、まあ今日は私だけじゃないしね、」
「でもあの馬を走らせてた人誰だろう、速かったなー、瑾さんと良い勝負できるよ」
スン・ティンの喜びが背中越しに伝わってくる、どうやら役に立てたようで嬉しい、
「何処まで走らせれば良いのですか、私も馬もまだまだ走れますけど」
「そうねぇここからなら、どこへ行こう、黄山にでも行こうかしら」
「えっ、黄山!」
さすがにびっくりした、行ったことはないけれど名前と場所ぐらいは知っている
「冗談よ、そんなに驚かないであなた真面目な人ね、」
この一言は詹麗君の気にしているところ、自己嫌悪にもなるところを見事に突いている、
「では何処なんですか、目的地は」
「怒った?へへへ、麗君かわいいな、」
腹が立つやら恥ずかしいやら、この人本当に建業の姫様なの
「ですから、どこへ行くんですか」
「翠崗へ行こう、今日みたいな風の吹く日は最高に気持ちいい」
そう言うとスン・ティンは大笑いした、吹く風よりも気持ちの良い笑い声が心を満たす、ついさっきまでのふくれっ面が崩れる、笑ってしまう、許してしまう、ちょっと卑怯。(選べるものなら強さより、可愛さの方が良かったな)
そんな気持ちにもなるけど、自分がかわいらしく笑っている姿、それがどうしても想像できない詹麗君、『仕方ないよ』いつもその一言で諦めてきた、でも今は、
「何のために諦めるの」
二人が降り立った翠崗はその名の通り一面緑の丘、そこから見渡す世界はまさに絶景、長江の流れも建業城の威容も一幅の絵のように美しい、スン・ティンが言う
「ここはね、光と風の出会うところ、音と色が織りなす調和の中心」
空を見上げ両手を広げる、小さな体を精一杯大きくして陽と風を全身に受けながら
スン・ティン、閉じた瞳に何を映したの、耳を澄まして聞こえてきたものは何
降りそそぐ陽の光は蒼穹を潤す風の色彩
吹きわたる薫風は綠野を染める光の言祝
詹麗君にはあたかもスン・ティンが光を放ち風を興しているように見えた、もし調和の中心があるのなら、それはスン・ティン、この人ではないか、
万緑叢中光一点
小さくて、可愛くて、やかましいぐらい良く笑うこの女性を建業の人々は太陽と呼ぶ、
「なぜ、私と一緒に、一人ではなくて」
見かけたばかり、声をかけたばかりの私をいきなり馬に乗せ、手綱を任せたのはなぜ、
「麗君と話がしたかったから、かな」
話しかけてきた詹麗君の傍に腰を下ろすとスン・ティンはそのまま寝転がってしまった、草花に囲まれ気持ちよさそうに空を眺めるスン・ティンにならい、詹麗君もその身体を緑の中に沈め空を眺める、空がずっと近くに感じられ吸い込まれそうな錯覚に陥る。まるで空に向かって落ちていくような感覚、空を飛べる日が来ることを疑わなかった幼い頃の記憶。
手に触れる草花の匂いはまさに生命の息吹、数え切れない幾つもの命に囲まれている。それは母の膝に帰ったような安心、四季を飾る花々と何時までもお喋りができていた過ぎ去りし日の思い出。
「なぜ、あそこにいたの」
寝転がったままの、空を見上げたままのスン・ティンが聞いてくる、詹麗君は建業に着いてからの出来事を話して聞かせた、初めて感じた建業の雰囲気からスン・ティンの居場所を突き止めてくれた女性、そして初めて見たスン・ティンのこと、
「本当に今日は大変な一日でした、私の今までの人生全部を合わせたよりもたくさんの驚き、その連続です、見たことも聞いたこともない街はやっぱり不思議ですね」
「見たことも聞いたこともない?」
スン・ティンは思う(感覚で捉えても、頭で理解しないと納得できないのかな、麗君は)
「はい、建業のような街は初めてです、それと貴女のような人も」
「ふ~ん、建業はまぁいいとして、私もなの?私ってそんなに変わってるかな?」
詹麗君の真面目な答えにスン・ティンは笑いながら聞き返す、
「いいえそんなっ、変わっているとかそんな意味ではありません、ただ私には理解できないと言うか、考えつかないと言うか、とにかく答えが出ない、そんな感じなんです」
体を起こして力一杯説明する詹麗君、上気して紅く染まった頬が真剣さを物語っている、熱弁止まぬ詹麗君を見つめて、スン・ティンはうれしかった、少し戸惑ったけど嬉しい、私の想いに対して一生懸命応えてくれる人がいる、私をこんなにも思ってくれる人がいる、(麗君に出会えて良かったな)心からそう思った、本気で思った、だから逡巡したけど
「そんな感じ、でいいよ」
言うべきだと思った、
「はい?」
突然話し込む勢いをかわされてしまい、言葉の意味が良く分からなかった、
「麗君が見て感じたスン・ティンが、麗君にとってのスン・ティン、それで良いよ」
「???」
少し落ち着いてしっかり聞いたつもりだけど、やっぱり分からない、風に押されながら柔らかく体を起こし話し続けるスン・ティン、とても静かな笑顔で
「感じたままで良いよ、それ以上は要らないよ...」
スン・ティンの笑顔に染まった風が、スン・ティンの言葉を載せ詹麗君を抱きしめてゆく。そうなんだ、スン・ティンの言ってる意味がようやく分かってきた、その刹那
「お言葉ですが、感じたものを受け入れるには理由が必要になりませんか」
詹麗君は急に不安になった、何かずっと頑張って守ってきたものが壊れていきそうで、泣きたくなる自分と、それでもスン・ティンの次の言葉を待つ自分と、二人の詹麗君
「うん、そういうこともあるよね、むしろ多いかな、」
「でもね、でもそればかりじゃ無いよ、感じたままが正しいこともいっぱいある、少なくとも私に関しては、ね」
なんて笑顔をするの、スン・ティン、そんな笑顔をされたら私、頷くしかないよ、だめなのに、認める訳にはいかないのに....でも、どうして頷けないの、思い出して
『スン・ティンはきっと形式にこだわらない』
そう信じたのには何か理由があった?
感じたものをそのまま信じたのではなかった?
そしてそれは、正しかったでしょう
スン・ティンの言葉にどれほど長い時間が過ぎたのか、それとも一瞬だったのか、詹麗君の頬を幾筋もの涙が伝っていく、こぼれ落ちた涙が握りしめた拳を打つ、
「ねぇ麗君、私思うの」
詹麗君の涙に濡れた拳をそっと包むスン・ティンの小さな手
「もっと麗君は、心のままに生きて良いと思うよ」
「心のままに...」
思い出されるのは母の姿、甦ってくるのは母の声、捨てたのでも失くしたのでもない、ただ忘れていただけ、母の言葉、母の願い。
母親と一緒に暮らした曲梁での六年間、空を行く雲を見ては走り出し、寝転がっては花や虫たちの会話に耳を傾ける、目に見えるもの手に触れるもの全てに興味があった、世界は詹麗君の心いっぱいに広がり、彼女の選ぶ道は彼女の立つ場所から無数に分かれ、無限に伸びていた、懐かしく詹麗君が普通の女の子でいられた色鮮やかな思い出の時間。
「麗君は武将として育てる」
この一言から全てが変わる、父親のこの一言も決して思いつきで言った訳ではない、悩んで苦しんでそれでも覚悟を決めて詹麗君に賭けたのである、嘗て二人の大将軍を輩出した名門もいまや過去の栄光。武一辺倒の詹家が平和の時代に上手く立ち回れる訳もなく、いまの現状も母親の実家の後ろ盾があればこそ、己の限界を知り時代を知り思いを娘に託した父の心情を知る母は、ただ黙って頷くしかなかった、選べぬ未来であっても、ともに信ずるは我が子の力、母と別れ洛陽で二人の兄とともに厳しい修行の日々が続く、幼いながらも父親の期待に応えようと必死に剣を振る詹麗君、有り得ない理想の将軍像を目指してひたすらに文武両面で己を高める詹麗君、唯一の慰めは年に一度だけ母親に甘えられる束の間の故郷、それなのに、会うごとに笑顔が下手になっていく、変わらぬ景色が色褪せて見える、何時しか母の笑顔を見るのが辛くなり出したあの日、私の手を握り言ってくれたね、
「いつか気付いてね自分を取り戻してね、心のままに生きてこそ麗君よ」
どうして忘れてしまったのだろう、何時から帰らなくなったのだろう
「お母さん...」
スン・ティンの小さな優しい手を強く握り返す詹麗君の大きな温かい手、涙は止まない
「ごめんね、私、あなたのこと全然知らないのに無責任なこと言ったね」
嗚咽漏らす詹麗君はただ頭を横に振るだけ、言いたかったのは(貴女に会えてよかった)。
「昔を、思い出していました」
スン・ティンを見る詹麗君に涙はなかった、目はまだ赤いけれど素直な笑顔が美しい、
「そう」
笑顔で応えたスン・ティンは、そのまま立ち上がり馬を探して呼び寄せる、
「おや?、瑾かな、あれは」
駆け寄ってくる馬の向こう遠くにもう一頭馬が見える、相変わらず見事な乗りこなし。詹麗君も立ち上がりスン・ティンの見る方向を眺る、遠くて小さくしか見えないけど、
「おお、これは上手い!」
思わず声に出す、南船北馬とは一般によく言われることだが、どうしてどうして見事な手綱さばき、あれほどの上手は詹麗君の知る限りでも数少ない、
「今日は瑾まで用意してたのか、」
両手を腰にあて大きなため息を一つ、でも笑ってる
「まだ逃げるのですか?」
答えを聞くまでもない、なんてうれしそうな表情。
「ううん」
大きく首を横に振る、今日見る笑顔の中で一番輝いている、
「帰るよ、今日は麗君に会えたから大満足。これ以上望んだら罰が当たるよ、それに」
輝くような笑顔、それに私と出会えて大満足だって、うれしいな
「それに?」
「お腹空いた」
「・・・・・・・・・」
私、すっごく素敵でかっこいい言葉を期待してたんですけど、ダメ?
確かにね、気付けば春の陽も随分西に傾いている、来る途中で水を飲んだぐらいか、
「そうですね、お腹空きましたね」
気を取り直して、まだ続きがあるかも知れないし
「うん」
本当につらそう、悲しそう、もしかしてこれで終わり?あの輝く笑顔はもしかして...それじゃあ私に出会えて大満足はどうなるの、ねぇちょっとー
「あっそうだ、餅菓子ならありますよ」
そう言うと荷袋をごそごそして包みを取り出しスン・ティンの前で広げる、
「えっ食べて良いの」
と言うよりも手の方が早かったわね、でもそこがまた可愛らしい
「美味しいですか、と言っても今朝ここの市場で買ったものですから..」
「やっぱり、美味しいと思ったら...いい人ね、麗君」
頬っぺた落ちそうだよ、本当に。もう、かわいいなスン・ティンは、この人を憎んだり嫌ったりする人なんていないよね、
「ここって食べ物美味しいでしょう、種類も多いし、何食べたの」
食べながら喋るのは行儀悪いよ、ついそんなことを考えてしまう、長い間の習慣だから
そんな簡単には変わらないな、でもいい、ゆっくり行こう私は自分を取り戻したんだ、
「いいえまだ何も、今朝着いたばかりでそのままさっき話したとおりですから」苦笑い
そう言えば私、どうしてお腹空いてないんだろう、普通なら倒れる位減ってるはずなのに、あまりにも驚くことが、不思議なことが続いたからお腹もすくヒマ無かったのかな。いやいや私のお腹に限ってそんなことは考えられない、私のお腹は私以上に、私らしい、
「えーじゃあ朝から何も食べてないの」
大きな声、意外だったのか本気で驚いたのか、
「悪いよ、それじゃあ」
抱えていた包みを麗君に返す、
「いいえ最後まで食べて下さい、それに朝は食べましたよ、宿を出る前に」
最後の一つ
「宿を出る前じゃ相当早いじゃない、やっぱりダメだよ、ほら」
包みを更に突き出す
「遠慮してるんじゃないんです、本当にお腹空いてないんです、自分でも不思議なぐらい」
うーん、麗君の顔は嘘をついているようにも遠慮しているようにも見えない、
「じゃあ半分個しよう」
言うが早いかスン・ティンは早速餅を半分にする、
「さっ食べよう」
スン・ティンは半分に割った餅の大きい方を麗君に渡す、
「おいしいね」
「おいしいです」
誰かと笑いながら食べるって、すごく美味しい、これも理屈じゃないね、私さっきまで何を気にしていたんだろう、本当にどうでもいいこと気にしすぎだな、
「あっ戻ってきた、水、水」
駆けてきた馬の手綱を取って止めると、真っ先に馬の頭を撫でて何か話しかけている。馬もスン・ティンに撫でられてうれしそうだ、主従と言うよりも友達だな。それにしても流れるような動きに無駄も隙もなかった、やはり普通じゃないよね。鞍に結わえ付けた筒をはずして水を飲むスン・ティン、どんな仕草も様になるな、
「お先にごめん」
スン・ティンが筒を差し出す、ずっと見てたから勘違いされたかな、でも気持ちよく筒を受け取り水を飲む、どうでもいいこと、それにやっぱり美味しい
「ねえ、忘れないうちに言っとくけど、私にも分からないの、だから聞かないでね」
流れる水も止まりそう、何かおかしくないあなたの会話、ちょっと変だよ
「何をですか?」
もう何を聞かされたって驚かないぞ、大丈夫
「スン・ティンっていったい何者ですか、なんて事は」
止まった水も逆流するよ、でも笑ってないね、もしかして真剣なの、かな、
「麗君が感じた以上のものなんて、無いよ、私には何もない」
見たこともない表情に絶句する、ようやくもう一頭の馬の蹄の音が聞こえてきた。
(良かった、助かった)
詹麗君はほっと胸をなで下ろした、馬の姿が段々大きくなってくる、スン・ティンが大きく手を振って蒋瑾の名を呼ぶ
「蒋瑾というのか、あの人」
初めて聞く名前、だけど見事な騎乗だ本当に世界は広いな。それにしてもさっきのスン・ティンの表情はいったい何だったのだろう、あれは。お腹を空かせた時の辛いや悲しいとは全然違った、でも言いしれぬ哀しみとか弱さとか無情とか、およそスン・ティンには一生縁が無さそうな感情がそこにはあった、
「私について、何も聞かないでね」
あの時のスン・ティンの言葉と表情と空気の耐え難さを、詹麗君はずっと持ち続ける、スン・ティンほど謎と不思議を秘めた女性は他にはいないだろう、この人本当に....
頭に浮かんだ思いはすぐに打ち消した、でもこの思いは詹麗君がスン・ティンを、そのありのままを受け入れることができた、あの日まで残り続ける、そして、孫媛やイン・イェンとの出会いを経て世界の神秘に思いを馳せるようになる、
「瑾、遅いぞー、お腹空いたー」
「何だとー」
花びらが風に舞うが如く軽やかに馬から飛び降りる蒋瑾、強いなこの人は、そう感じるのは詹麗君の本能だろう、そしてそれは蒋瑾も同じだった。
「はじめまして、淮南の蒋瑾と申します、以後お見知りおきを」
「曲梁の詹麗君です、こちらこそ、よろしくお願いします」
(淮南は今の安徽省淮南です、曲梁の方は私の持っている資料では現在確認できないのですが、おそらく河北省曲周かその周辺だと思います、ちなみに邯鄲の北で石家荘より少し南です、今更ですが名前以外は出身地や性格も含め朝霧が勝手に創ったものです、創作とはいえお気に障る部分もあるでしょうがご容赦下さい。)
後に王龍、王鵬と称される二人が初めて言葉を交わし握手をした瞬間、夕暮れ間近の翠崗、建業を見下ろし長江を見渡す丘の上、スン・ティンだけが見ていた、
詹麗君が外からきて楽坊と出会った最初の人である、
(加入は僅かにレイ・インが先)
蒋瑾は詹麗君の出身と佇まいその雰囲気からおおよその見当を付けていた、しかしそのことを詹麗君に確認することも、問うこともしなかった、それが蒋瑾の人柄である。二人とも本当に背が高い、それでも二人並んで立つとほんの少しだけ蒋瑾の方が高いか、
「でも私より背の高い女の人初めてです、ちょっとうれしいな」
「やっぱり、あーあ、私はちょっと悲しい、もう少しなのに」
美人で均整のとれた体型、高い腰の位置きめ細やかな肌、でも、それでも悩みがある
「何よ二人とも、私への当てつけ、どうせ私は小さいですよ、背も胸も、ふん」
拗ねるスン・ティンも可愛いな、詹麗君は目を細める、でも蒋瑾は幼なじみだからね、
「テンの話し何かしてないだろ、ひがむなよ、だいたい大きけりゃテンじゃない」
「むっ、何よ瑾なんてねー背も高いけど足もばかでかいのよ、そりゃもうこーんな」
詹麗君の前で手を広げてみせる、むきになって、でもいいな幼なじみか、私には...ゴン、という音とともにスン・ティンが頭を抱えてしゃがみ込む、ぐぅぅぅぅ
「さあ帰りましょう、陽が沈みます、直に冷えてきますよ」
そう言う蒋瑾の手にはいつのまにか幅広の刀が握られていた、
「蒋さん、やはり呉鉤ですか」(呉鉤=ごこう・曲刀の一種、呉国の刀という意味)
「ああ、これですか、そうですね直刀も使いますが、この辺ではこれが便利です」
軽く呉鉤を振る蒋瑾、それでも切れといい力強さといい迫力十分
詹麗君はスン・ティンの頭を撫でながらも、蒋瑾の動きから目が離せない
「見事なものですね、誰かに?」
感動すら覚えた、初めて見るけど相当な技量である、
「一応は習いましたが田舎ですから、ほとんど我流です」
「それは本当にすごい、我流は一派を生むといいますが、正にですね」
うれしさより恥ずかしさが勝って俯き加減に呉鉤を差し出す、詹麗君は躊躇うこと無く立ち上がりそれを受け取る、呉鉤に見入る麗君の表情は子供のように無邪気で楽しそう、やはり店先に置かれているものとは全然できが違う、これが南方の刀本物の呉鉤なんだな、麗君は手にした呉鉤を何度か振ってみる、蒋瑾の真似だがとても初めて扱うとは思えない、一度見ただけで初めての刀で何と素直な動き、何げに怪物的な凄さをのぞかせる詹麗君、驚く蒋瑾に首をかしげる詹麗君、
「うーん、やっぱりちょっと難しいですね」
それでも満足したのか笑顔で蒋瑾に返す
「・・・・・詹さん、あなたは化け物だよ」
そういいながら蒋瑾も笑顔で受け取る、互いの実力を認め合う二人は気持ちよい笑い声を豪快に緑野に響かせる、そんな中
「痛たたた、本気で叩かなくてもいいじゃない」
スン・ティンが立ち上がってきた
「私の本気を知りたい?」
蒋瑾は鞘に戻した呉鉤の柄に手をかけてスン・ティンを見る
「いえ、けっこうです」
澄まし顔で蒋瑾の前を歩いていくスン・ティン、振り返って大笑い、つられて二人も大笑い今度は三人の笑い声が夕空遙かに飛び立ってゆく、
「早く帰ろう」
詹麗君に向かって手招きをする、
「麗君も一緒に来るよね、まさか予定があるなんて言わないでしょ。聞きたいことも話したいことも、まだまだいっぱいあるんだよ」
馬の傍でぴょんぴょん跳びはねるスン・ティン、帰りも手綱は詹麗君が握るらしい。詹麗君も話したいこと聞きたいことがいっぱいあった、一番聞きたいことは駄目だけど。歩き始めたとたん詹麗君がよろける、えっどうしてと思うまもなく座り込んでしまった、麗君自身も驚いたけど、他の二人はもっと驚いた、
「どうしたのー」
「どうしました」
スン・ティンは飛んできて怖いぐらい真剣な眼差しで麗君の顔をのぞき込む、二人の本気の心配顔を見て詹麗君は小さく手を振り顔を真っ赤にして下を向く、
「何?」
蒋瑾の方を見るスン・ティン
「さあ」
蒋瑾も理解しかねて首を傾げるしかない、
グーーーーーー大きな音、
「何の音?」
「さあ、本当に大丈夫?」
耳まで赤くなった麗君
「すいません何でもないです、ただ・・・ちょっと・・・・お腹が空いたみたいで・・」
二人はしばらく無言だったが、思わず吹き出してしまった、スン・ティンはそのまま腹を抱えて笑い出す、一方詹麗君は何だか小さくなったように見える、沸騰しそうだし。
「やっぱりー、そうだよねー」
笑いすぎて涙がにじんでる、それでも麗君の腕をとって助け起こすとそのままスン・ティンが馬の所まで連れて行った、どっちが支えて支えられているのか分からないけど、詹麗君も満足そうなので蒋瑾は何も言わなかった。
「さあ急いで帰ろう、麗君お腹いっぱい食べてね」
「でも私、食べますよ、かなり」
「大丈夫だって、私を誰だと思ってんの建業の姫様だよ」
スン・ティンはそう言うと、右の袖をたくし上げて力こぶをつくって見せた、
建業に戻り皆の出迎えを受ける、皆とは言ってもこの時点での楽坊はスン・ティン、周健楠、楊松梅、蒋瑾、廖彬曲、仲宝の六名だけですが、(十三人全員が揃うのはもう少し先のことです)(建業=現在の江蘇省南京)詹麗君を迎えたこの夜はたくさんのことが語られた夜でもあります、スン・ティンは初めて出会った周健楠のことや建業入りを決めるまでの思いを、仲宝も周健楠に出会う迄のことを、蒋瑾や廖彬曲も昔のことを特にスン・ティンの話は本人が必死に否定すればするほど真実みを増していくもの、周健楠も建業建設に至った思いとこれから先の展望を語る、楊松梅だけは過去を語らなかったけれど誰も気にしていない、それぞれが持つ過去や内に秘めた思いは尊重するのが楽坊流、そして詹麗君も過去や今を語りはじめる。
詹麗君が肌身離さず持つ剣の名は“鳳翼”、西漢の明帝より賜った詹家重代の宝剣であり鳳翼は詹家当主の証、麗君の父親は麗君に鳳翼を譲り洛陽から逃がすことを決意した、その半月後に長安への遷都が宣言され、洛陽は破壊の限りを尽くされて廃墟同然となる
(参考:董卓により長安への遷都がなされたのは初平元年(190)の二月)
詹麗君はその後、洛陽にも曲梁にも戻っていない、鳳翼と共に父の心も受け取ったからあの夜麗君は初めて父の本心を知った、その涙に父の私に対する愛情の深さを知った、だからこそ詹麗君は戻らない、父と母の愛と願いを鳳翼の柄に刻み込み彼女は旅を続けてきた、そして今、建業にいて楽坊の皆に自分の過去を話していることの不思議を思う、私の今までの人生は今日この日の為にあったのかもしれない、ここで皆に出会う為に。
(詹麗君の父親との会話や柄に刻んだ文字、スン・ティンや仲宝の昔話、周健楠の演説など興味深い話がたくさんありますが、長すぎて書けないのでカットします)
数日後、建業に近い港に詹麗君と楽坊の六人がいた、
「帰りには忘れずに寄ってね、初めて海を見た感想を聞かせて欲しいもの」
「楽坊に入って欲しいな、教えて貰いたいことがありすぎるほどあるのに」
「また一緒に駆けましょう、それと騎射の手ほどきもお願いしたいわ」
それぞれ詹麗君に声をかける、仲宝だけが素直に入って欲しいとお願いしたが他のものははっきりとは言わなかった、誰もが楽坊に入って欲しい仲間になって欲しいと願っているけど、詹麗君に迷いがあることが分かるから、そのことは口にできなかった。
でも誰もがその日はきっとくると信じて疑わない、詹麗君は絶対仲間になってくれる、翻る楽坊の旗の下、先陣を切って進むのはきっと詹麗君、その威風堂々たる彼女の姿が目に浮かぶ、だけど今はただ待つのみ。
最後まで別れを惜しんでいたのはスン・ティンだった、詹麗君がそっと話しかける
「こんなにすごい人たちがいるなんて、感じませんでしたよ、何も無いなんて贅沢です」
スン・ティンの言葉の意味に合っていないことは重々承知、だからスン・ティンも
「そう?、そうだね、そうだよね、」
笑って応じる、贅沢の意味をちゃんと理解して。その後も誰といわず何かと理由を付けて詹麗君に話しかける、時間だけが過ぎてゆく、
「さあもう良いでしょう、これじゃあいつまで経っても麗君が出発できないわ」
「本当に、名残惜しいけどね」
周健楠の一言で船に乗っていた面々も渋々下船した、
「また今度ね」
誰もさよならとは言わなかった、詹麗君を乗せた船が静かにゆっくりと長江を下ってゆく、見えなくなってからもずっと船の去った方向を見つめるスン・ティン
「松梅、健楠、何とか麗君を仲間にできない」
問いかけても振り返らない。
「できるものならば、今すぐにでも」
答えたのは楊松梅、
「待ちましょう、彼女はきっと帰ってきてくれます、自分の意志で」
そう言うと周健楠は、スン・ティンの両肩を優しく包み一度だけ力を入れる、スン・ティンは健楠の手に自分の手を重ねて一度だけ頷く、長江の彼方を見続けたまま。詹麗君もずっと船尾に立って建業の方角を見ていた、建業の高い城壁もすでに見えない、本当は詹麗君も建業に残りたかった、楽坊のみんなが大好きだった、目指すべき目標に向かって信じあえる仲間と一緒に苦楽を共にする、私もそこに加わりたいとも思った、だけどその決断はできなかった、
「楽坊に入りたい」
一言そう言えばスン・ティンも周健楠も歓迎してくれただろう、でもその一言は最後まで言えなかった、あまりにも自分が歩んできた世界とは違っていたから、詹麗君にとって二人の兄は競争相手でしかなく、志を同じくする者たちも結局は彼女の才能を妬み羨む者ばかりだった、いつしか詹麗君の心の内には信じるべきは自分の力だけ頼るべきは厳しい日々の習練のみ、という思いが広がっていた、その心を持って詹麗君は自分で決めたと信じる道を歩いてきた、だから今、スン・ティンや周健楠達を信じようと思っても信じること自体に自信が持てなかったし、彼女達の住む楽坊という名の世界に自分の居場所を見出すことができなかった。笑顔の下で迷い続けての別れであった。
短い間でも強烈な印象が残った建業の日々、そのきっかけを作ってくれた女性をなぜか忘れていた、そう言えば名前も聞いていないし、お礼も言えずそのまま別れてしまった、せめてお礼を言いたい、いやそれも大事だが、もっともっと大きな問題があった、
「あのひと、私のことを間抜けな女だと思ったままだわ」
もの凄く悲しかった、許されないと思った、
「きっと探し出して本当の私を見てもらおう、うん」
固い決意、でも凄くうれしそう、とにかく、これで建業へ戻る理由ができたのだ、詹麗君自身が納得のできる理由が、頼まれたから約束したから戻るのではない、詹麗君自身に戻る理由があるから戻るのだ、こういう不器用なところも彼女の魅力である。
詹麗君が建業に戻ったのは秋も終わりに近づいた頃だった、彼女の予定では夏の初めには戻れるはずだったが、武進から会稽に足を延ばしたことによって状況が一変する、
(武進:現在の江蘇省鎮江周辺です当時はこの近くまで海岸線が来ていました、場所は
少し外れますが上海もこの時代はまだ海の中です)(会稽:現在の浙江省紹興です)
会稽を目指す船の中詹麗君は件の女性と再会する、半ば意気消沈しながらも建業での親切に謝意を伝える詹麗君、「忘れていたわ」笑う彼女、その女性の求めに応じて一緒に会稽へ向かったが為にある事件に巻き込まれ、詹麗君の活躍で無事解決した時には既に秋も半ばに差しかかっていた(ある事件は直接楽坊とは関係がないのでここではカットします)。
探していた女性に出会い詹麗君の真の実力も披露した事により、建業へ戻る詹麗君自身の理由は無くなってしう、更に戻る予定も遅れてしまった、しかし、詹麗君に楽坊入りを決心させたのもまた彼女だった、銭江秋濤、荒ぶる自然を前に詹麗君は心を晒してみる
「私はみんなと一緒にいたい」
最後に残った唯ひとつのそして全ての思い。
楽坊に入るために帰ってきた建業で詹麗君は新たな女性と出会う、詹麗君以上に孤独の世界を生き続けるこの女性こそ、後に刎頸の交わりを結ぶレイ・インその人であり、彼女に出会えたことで、詹麗君は自分を取り戻す為の大きな一歩を踏み出せたのである。
『無限妙手(無弦妙手)』、もちろん詹麗君のことであり、初めて呼んだのは雷滢。
時代が下るにつれこの言葉は詹麗君の武だけを象徴するようになる、もちろんその意味も含んでいるが雷滢がこの言葉に込めた意味はもっと深い、例えば詹麗君の古典に対する知識や情熱も相当なものであり、「周礼新書」(楽坊が新の時代に改竄された「周礼」を改編したさい注訳と新訳を加えたもの)の編纂では中心的な役割を果たしているし、詩歌にも斬新な作品を残し後世にも少なからぬ影響を与えている、詹麗君が多彩を極めるのは武の技だけではない、そして詹麗君の詹麗君たる所以はその才能の上に積み重ねられる不断の努力と衆に聞く謙虚さである、自分と真剣に向き合い他者を尊重する、妥協無き克己の人生を貫いた詹麗君の生涯は楽坊の中にあってさえ光り輝くものである。
「今日の私を負かせるのは、明日の私だけ」
この言葉に驕慢の影など微塵もない、あるのは自分が描いた未来に向かって一歩でも近づこうとする、詹麗君の愚直なまでに一途で真摯な思い。
ただ詹麗君は時々思いついたかのように悪戯をする、それが普通の悪戯ならさして問題にはならないのだけれど、詹麗君の場合その悪戯にも全力を尽くすのである、彼女にしてみれば悪戯は悪戯として精一杯楽しもうという思いがあるらしいが、それに付き合わさる者(もちろん無理矢理)にしてみればとんでもない話である、命懸けになることも有るのだから大迷惑を通り越して正に死活問題だったのかも知れない、それでもこの悪戯心が詹麗君の人生に彩りを与え彼女の魅力をより一層高めているのも事実であり、前出の言葉も雷滢の気持ちには「尽きぬ才能と果てしない魅力を併せ持つ超絶の人」という意味が込められているのであり、さらに雷滢にしてみればこれでも控えめな表現らしい。
風林火山に喩えると、詹麗君は火、雷滢は風であろう(蒋瑾は山、イン・イェンは林)風は火を炎に変え、炎は風を竜巻に変える、二人は出会うべくしてであったのである、
「ありがとう、あの日のことは一生忘れないよ、あの日私は初めて仲間を信じた」
雷滢は気付いていない、正しくはあの日の雷滢の行動を詹麗君が勝手に誤解したのである、ただ詹麗君の誤解は二人にとっても、楽坊にとってもこれ以上ない喜びをもたらすこととなった、良くも悪くも詹麗君は自分を信じ、信じたからにはとことん真っ直ぐ突き進む、そして諦めない、諦めずに投げ出さずに信じて信じ抜いて詹麗君は願いを叶えた。
二人はずっと後になってから真相に気がつく、そのとき彼女達はただ笑っただけだった。
楽坊の十三人の中には楽坊に加入してから随分と個性が変わった者が何人かいる、詹麗君もそのうちの一人、最初の頃、詹麗君は一人で全てを背負い込むところがあった、責任感が強いのは生まれついてのものだけど、やはり洛陽での習練の日々が彼女に与えた影響は大きく様々でありそう簡単には変えられない、特に彼女が唯一の頼みとしている武にあっては、決して他人を見下してはいないのだが、彼女は自分の力しか信じていなかったし(蒋瑾の実力は十分認めていたけれど)、自分が関わった作戦が失敗に終わると、関わった多少を問わず全ての責任を引き受けてしまう、そして「結局自分は一人なのだ」という思いに至るところは雷滢と同じである。
変わっていこうという思いは詹麗君自身が強く持っている、何よりも「私は自分を取り戻した」と確信しているから、思いと現実の落差に自分で自分に腹が立つのである、この問題は詹麗君自身が克服すべきものだから楽坊のみんなはどんな時でもいつもと同じ、ただ当たり前に接するだけだった、言葉に表さない優しさが身にしみて有りがたく、でもその思いに応えようとすればするほど抜け出せない深みにはまりもがき苦しみ続けることになるのである、この負の連鎖を断ち切る最初の一撃が雷滢への誤解に寄るところは果たして運命だったのか、否か。
ともかくあの日を境に詹麗君は変わりはじめた、それは間違いのない事実。
きれいにくしけずられ肩から背へと流された黒髪、その漆黒の輝きには真珠が溶け込んでいると伝えられ、この一事を持っても彼女が天から愛されていたことが分かるというもの、詹麗君は紅い武装を好みまたそれが良く映える、戦場で誰よりも目立つ赤い姿と火の如しと怖れられる激しい戦い振りが重なって炎の詹麗君とも呼ばれる、そんな彼女の武勲を数え上げていけばきりがないのだが、汝南攻略戦、虎牢関の戦い、幽州平定戦、などは特に有名である、そして詹麗君が常に手にしていたのが朱柄の方天戟、これは建業の城に招かれたおり初めて披露された七種の武器のひとつである。
七種の武器とは“青龍偃月刀、鉤鎌刀、鉤鎌槍、方天戟、青龍戟、蛇矛、三尖刀”のこと、これら七種の武器は洛陽にいた頃、あらゆる武器を使って訓練してきた詹麗君にとっても初めて見るものばかりであった、その中で詹麗君が最初に手にしたのが方天戟だったのでそのまま彼女が所有することとなった、そして青龍偃月刀は蒋瑾、鉤鎌刀はイン・イェン、鉤鎌槍は雷滢がそれぞれ所有し、スン・ティンは三尖刀と青龍戟を愛用している。
七種の武器は王冶子と名乗る刀工が鍛えたものである、この刀工は周健楠がスン・ティンを見つけ出す前に建業に現れ、その目的を「周健楠の望みが叶ったお祝いに七種の武器を献上しに来たのだ」という、さすがに周健楠も怪しみそのときは下がらせたが、その後にスン・ティンを見出すことができた為、今度は礼を尽くして七種の武器を貰い受け、併せて今後の協力を懇請したのである、伝説の名刀工を名乗るこの人物もまた謎の人である。
無敵を誇り疾風怒濤の激しさで大陸を席巻した楽坊騎馬軍団、その強さの秘密に鐙と馬甲の使用があげられる、それは「飛天」「黒騎兵」という楽坊軍を象徴する騎馬軍団誕生の直接の要因にもなった、鐙(一説にはレイ・インが考案したとも謂われる)の使用により長距離(長時間)の移動が可能となり、姿勢も安定して馬上での自由度が格段に高まった、更に馬甲を付けた馬は弓や弩による攻撃をほぼ完全に防げたため、騎兵本来の衝撃力や突撃力を何ら損なうことなく十二分に発揮することが出来たのである。
飛天は主に軽装備で機動力と展開力を重視して短弓を主力武器とし、黒騎兵は主に重装備で突撃による破壊力を重視して長兵器を主力武器とする、もちろん両部隊とも作戦内容や戦場の地形等の状況に応じて人馬の装備は変更される、その辺りの柔軟さも楽坊軍の特徴であり、臨機応変の戦略戦術に即時対応出来る万全の補給体制をまず確立させたことが、楽坊軍の戦場における勝利を決定的なものにしたといえる、
話が逸れてしまいましたが楽坊にとって馬は無くてはならない存在であり、楽坊達も勇敢で繊細な彼等をとても尊敬していました、そして数多くの駿馬の中で太祖スン・ティンや三王将軍の愛馬として特に名高いのが、“踰輝、挾翼、越影、超光、奔霄”、の楽坊五駿と呼ばれる名馬たちです、この五頭が登場するのは中盤に差しかかる辺りからなのですが、後の時代に書かれた小説等では最初から登場するものもたくさんあります(日月の彼方へ、でもイン・イェンさんの乗馬は奔霄です)、何であれ彼女達が心を通わせ命を託しあった楽坊五駿も時代を超えたくさんの人々から愛されているのです。
越影に跨り方天戟を振るう詹麗君の活躍は統一戦争終了後も続きます、楽坊は統一を果たした後も幾度となく外征を行います、その理由は様々であり、好む好まざるに関係なく時代は楽坊を中心に回り始めていました、その中にあって詹麗君は特に困難が予想される地域に向かっていきます、もちろんそれは詹麗君自身が望んだことであり彼女でなければ収まらない事態もたくさんありました、それでも人はその訳を問い、彼女は一言答える
「私は、自分の望むところへ行く、ただそれだけ」
楽坊以外のもので彼女の真意を知る者また理解する者はいないでしょう、それでも彼女の静かな微笑みと穏やかな声はこの言葉が本心であることを全ての人に確信させます、詹麗君は心のままに生きても和して同せずを正しく理解し実践していました、彼女は自分でも気付かないうちに無為自然の境地に達しようとしていたのかも知れません。
レイ・インに「無限妙手」と称えられた詹麗君、彼女が後進に語った言葉が残っています
「幼い頃より繰り返し繰り返し教え込まれた基本の型、これが私の全てです」
「極めた、と思った瞬間次が見えてきます、悩んで努力して乗り越えての連続です」
天下最強の詹麗君とは誰もが認めるところ、ただ詹麗君だけが最後まで認めませんでした。
レイ・インが変わらぬ友情を誓い、蒋瑾が尊敬し孫婷を始め大勢の人に愛された詹麗君、たとえ一人でも楽坊のなんたるかを表現出来る、詹麗君こそ正しく「楽坊の華」そう呼ぶにふさわしい女性である。
-2005/04/17~05/30
-written by 朝霧
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